— 天皇陛下からホームレスまで —
誰とでも話ができる、つながりを作っていけるというのが私の強み

ファーストレディ

安倍 昭恵さん

東京都出身。1987年安倍晋太郎元外相の秘書を務めていた安倍晋三氏と結婚。現在は、首相夫人として多忙に過ごすかたわら、ミャンマーでの寺子屋設立や山口県産の無農薬米「昭恵米」栽培などに精力的に取り組む。2012年には神田で居酒屋UZU の経営をスタート。著書に『安倍昭恵の日本のおいしいものを届けたい!』(世界文化社)、『どういうときに幸せを感じますか?』(WAC)、『「私」を生きる』(海竜社)がある。

以前は総理大臣の妻としてガチガチに型にはまっていた。今は一人の女性としてどう生きるか考えたい

安倍昭恵さんは、今までにないタイプのファーストレディだ。数々の外交の席で総理をサポートするだけでなく、被災地復興のために地方に出て講演をしたり、ミャンマーで寺子屋を作ったり、農業や和食の店の経営に携わったり。そして、フェイスブックで、毎日8万8,000人以上のフォロワーに発信し続けている。

それでも、「総理夫人という立場は、日本では何でもないんですよ。ただの総理の奥さんというだけ」とグレーのスーツに身を包み、総理公邸の一室で取材に応じてくれた昭恵さんは言う。アクティブな女性というより、しっとりと柔らかな印象だ。

総理夫人は、特別な予算もなく、警護対象でもない。

公邸に住んだからといって、お手伝いさんがいるわけでもない。「だから、私が泊まらない時は、主人は朝一人で冷蔵庫からヨーグルトを出して、食べているんです(笑)」

以前は政治家の妻として、総理大臣の妻としてどうあるべきかを考え、妻という型に自分をガチガチにはめていたという。政治家の妻が政策に対して反対してはいけないと、自分の意見を公に口にすることはなかった。ところが、2007年に総理夫人という型がなくなった時、「安倍晋三の妻としてより、一人の女性、安倍昭恵としてどう生きるか考えたい」と思ったと、自著『「私」を生きる』(海竜社)に書いている。

5月にはイランを訪問し、現地の女性政治家と女性活躍についても意見交換した。

総理公邸の一室に飾られていた安倍総理の人形。話しかけると総理の声で反応する

「私自身は、有能でキャリアを積んできたというわけではないので、すごく、がんばれ、がんばれと言われてしまうとプレッシャーになる女性もいるだろうと思う。みんなが働いて男性と同じように昇進を目指していくというのは違うと思っています」

「仕事の仕方も子供を連れて行ってもできる仕事があったり、時短があったり、一日中残業しないと昇進できないというのではなく、短い時間の中でやるべきことをやればそれなりのポストが得られるというような社会の仕組みというか、働き方が変わっていくということが必要なのではないでしょうか」。そのために、「思い切り頑張っている女性に頑張っていただいて、少し上に上がった時に仕組みを変えていっていただきたい」とエールを送る。

防潮堤や原発の問題がある中で自分の役割はつながりを作っていくこと

昭恵さんの手がけたプロジェクトはさまざまだが、とりわけ積極的に取り組んだのが、東北の防潮堤の問題だ。

「防潮堤は400キロにわたって、高いところは15メートル近くで総工費が1兆円ぐらいかかるんです。本当に必要なのかという議論がきちんとなされないまま工事が着工されてしまっている所がある。防潮堤ができなかったら、復興が進まないですよと言われたら、じゃあ作ってくださいと言うしかない状況の中で、この地域はみんなが防潮堤賛成です、というようなことになっている。難しい問題だと思いましたけれど、そこで一生懸命反対運動をしている人がいて、私が入ることで少しは何かが変わるのかなと思いました」

「私はとりあえず、この問題を広くみんなに知ってもらいたいと思って、色々なところで話をしています。これは防潮堤の問題だけではなく、この国の縦割り行政のあり方だったり、物事を決定するしくみのあり方だったり、住民の合意のとり方であったり、民主主義のあり方だったり。この国のおかしいところはおかしいと言っていかなければならないと思っています」

今、心配しているのは、防潮堤や原発の問題で、賛成派と反対派の分裂によりコミュニティが壊れてしまうこと。そんな中、自分の役割をこう見る。

「つながりを作っていくというのが、私の一つできること。何のとりえもないですが、私は日本の中で最も幅広く色々な人と話せる人の一人だと思うんです。天皇陛下からホームレスまで誰とでも話ができる。上流階級、経済界のお偉方もいれば、全くそんなところに縁のない若者たち、スーツも着たことのないニートのような若い子たちもいる。いろいろな人たちと話が普通にできるというのが、私の強みの一つです」

防潮堤の問題がきっかけで始まった若者たちとの交流では、新たな交流も手がける。今年の3月11日には、宮城県の山元町で、熊本で竹に穴を開けて装飾を施した竹筒に灯りをともす「竹あかり」で町おこしをしている人たちと共に、東日本大震災で犠牲になった人たちの慰霊祭を行った。その直後に熊本が震災に遭い、今度は、山元町の人たちが熊本に支援に訪れた。

これから力を注ぎたいことは、人々を元気づける熊本の竹あかりのようなプロジェクトだ。「全国に広げていって、コミュニティ作りみたいなことをやっていけたらいいなと思っています」

取材・文/大門小百合 写真/川崎聡子